赤坂サカスの宮本亜門氏凱旋公演「金閣寺」に行きました。 その2
しかし宮本亜門氏の演出は初めてなんですが・・驚きましたし、ニューヨークで絶賛された理由が判りました。舞台セットは一種類だけ。その中で、舞踏団の方が身体を使って踊りと見まがう振りで台を使って見事に舞台を作り上げます。
派手な仕掛けも照明も何も無いのに、確かに私の脳裏には「金閣寺」が見え、お寺の僧坊が見え、大学の教室が見えました。すごい演出力です。
アメリカ、特にニューヨークとかでは、あのようなシンプルでかつ幻想的で躍動的なステージって受けるのじゃないか?と思えました。
何よりも俳優さんの一人一人の存在感がすごく際立っていて、人気の方でもテレビでは私は見た事が無くて(テレビを普段あまり見ない人なので)その確かな演技力に驚きましたのです。
何かとスキャンダル先行で話題になってしまう俳優さんの存在感の有る演技や主演の森田剛さんの確かな演技力に圧倒されてしまいました。
そしてホーミーが素晴らしく印象的に使われていましたのに驚きです。私はあの瞬間まで、恥ずかしながら「ホーミー」を別のものと勘違いしておりました。
一瞬、「機械音?」と思える甲高い声。でもそれは人間の声で、金閣の象徴である「鳳凰」の化身が出す声でした。鳳凰はホーミーで溝口をかく乱します。
特に溝口は幼い頃に見てしまった母親と伯父との淫らな関係のため、自分自身も性的な事をしようとしたり考えると「鳳凰」が出てきて、その甲高い声に頭の中をかき回され自分自身を抑制されてしまう。
この辺でも単細胞の私は、溝口の父の「逃げの姿勢」に苛立ちました。「見ちゃいけない」と妻と兄との情事の現場をも「見なかった・聞かなかった事はすなわち現実じゃない事」と幼い溝口の目と耳を塞ぎ、そして「金閣寺」への憧れの言葉をまるで呪詛のように吹き込み洗脳する
幼き溝口にとっては「性=汚らわしく、そして醜いもの。美の化身・象徴としての鳳凰・金閣の対極にあるモノ」というイメージが植え付けられてしまったのではないか?と。
しかも時は戦争と敗戦。溝口が教えられてきたであろう「戦争前の価値観」と「戦後の価値観」の埋めがたきギャップ。
人一倍繊細で完璧主義者の彼にとっては、自分自身の立ち位置の確保は本当に難しかったであろうと思えます。
戦前は「性的なモノは秘すべし」で有ったはずなのに、街中には「米兵と一緒に派手な格好をして歩くパンパン」達。
最初は彼女のお腹の中の子供を人為的に流産させるために自分の手を汚さずに溝口を脅して手伝わせる米兵。
最初は戸惑いながらも段々と過激に蹴りつける溝口。きっと幼き頃見た母と伯父の姿に蹴っているパンパンの女性を重ねたのじゃないか?そしてそれによって女性に触れる事すら出来ないための代償行為として女性を蹴る事で快感を覚えていたのでは?と思えました。
しかしその事も金閣寺の住職は不問に付すことで溝口の「絶対なるモノ」への不信は募る。
負のスパイラルです。
良かれと思ってした住職の行為。あるいは住職も、溝口の狂気の芽の内包を感じ取っての「事なかれ主義」の「臭いものには蓋」と言う考えだったのかもしれませんが。
三島由紀夫氏は「美」を追い求めていた作家だったような気がします。美文調の文章であったり内容であったり。
川端康成氏は一見すると判りがたい美への執着が有ったようです。しかし小説の中では私のようなウッカリには気がつかない感じでしたが。
話を戻しますと、金閣寺を燃やす事で溝口は自分自身の中の「理想化され、現実にはあり得ない絶対的な善と美の化身」から脱却出来たのだろうか?
私には溝口が燃やしたのは「自分の中の大きな核」をなしていたモノであるように見えました。母に対しても初めて「元気でな」と言う言葉を掛ける溝口。
それまでは「母親の庇護の元」「母親の言いなり」の青年の初めての「自我」の露出。
しかしそれが良くも悪くも溝口の人生を形作ってきた核のようなモノを自らの手で燃やしてしまったとしたら、ゼロからの構築は大変じゃないだろうか?
溝口・柏木・鶴川・住職・父親・母親・・・登場人物の中の心情がどれをとっても「自分の中に有るかも」と言う居心地の悪さ・・
私は舞台を身じろぎも無く見て、ドッと疲れ果てました。
その後、六本木ヒルズに向かったのは、剛君のチラシが欲しいと言うだけの事じゃなくて、「剛君にミーハーしている」と言うバカバカしいほどの明るさ?を求めていたのかもしれません。
六本木から日本橋に回り、用事を済ませるも、なぜか「箔座」に行けなかった。
あの日は「金箔」と言うきらびやかなモノを鑑賞する気分になれなかったから。
舞台の有り方は様々だと思えます。
エンターテインメント性が高い舞台で「日常の憂さを忘れさせてくれる華麗なショー舞台」も有れば、「日常の憂さを忘れさせる」どころかこのように観客に何かを思い起こさせる舞台も有る。
勿論、どちらが上とか下とかの評価はあり得ないとは思う。しかし、舞台に立つ人ならば、一度はこのような舞台に立ってみるのも良いのじゃないか?と思ったのです。
三島原作で宮本亜門演出。しかもNYで公演され絶賛された舞台。森田剛君は素晴らしい機会に恵まれたと思えます。
生意気を言うようですが、舞台って「演出家」で全然違うと思ってます。同じ俳優さんでも演出家が違うと「あれ?」と思うほど、芝居の内容が変わりますと思えます。
私の好きな方もある方の演出の時には「え?こんなに巧かった?この人」と思うような舞台でしたが、別の方の演出では???が一杯でしたから。
それでも彼は色々な舞台に立てるのだからラッキーだと思えます。
最後に私はブログタイトルでもお判りのように「堂本剛さん」の大ファンです。
剛君は「花影の花」で舞台に立っていますが、それ以後は舞台とは縁が有りません。私がそれに対して不満を持っても、彼自身と周りが決める事。
私が今出来る事は、彼の今のお仕事を見守り応援する事だけです。
きっといつの日にか、堂本剛さんも一杯色々な経験を積まれて、音楽活動以外の表現者としての姿も見せてくださると信じています。
感想とも言えない取りとめのない話にお付き合いくださりありがとうございます。
派手な仕掛けも照明も何も無いのに、確かに私の脳裏には「金閣寺」が見え、お寺の僧坊が見え、大学の教室が見えました。すごい演出力です。
アメリカ、特にニューヨークとかでは、あのようなシンプルでかつ幻想的で躍動的なステージって受けるのじゃないか?と思えました。
何よりも俳優さんの一人一人の存在感がすごく際立っていて、人気の方でもテレビでは私は見た事が無くて(テレビを普段あまり見ない人なので)その確かな演技力に驚きましたのです。
何かとスキャンダル先行で話題になってしまう俳優さんの存在感の有る演技や主演の森田剛さんの確かな演技力に圧倒されてしまいました。
そしてホーミーが素晴らしく印象的に使われていましたのに驚きです。私はあの瞬間まで、恥ずかしながら「ホーミー」を別のものと勘違いしておりました。
一瞬、「機械音?」と思える甲高い声。でもそれは人間の声で、金閣の象徴である「鳳凰」の化身が出す声でした。鳳凰はホーミーで溝口をかく乱します。
特に溝口は幼い頃に見てしまった母親と伯父との淫らな関係のため、自分自身も性的な事をしようとしたり考えると「鳳凰」が出てきて、その甲高い声に頭の中をかき回され自分自身を抑制されてしまう。
この辺でも単細胞の私は、溝口の父の「逃げの姿勢」に苛立ちました。「見ちゃいけない」と妻と兄との情事の現場をも「見なかった・聞かなかった事はすなわち現実じゃない事」と幼い溝口の目と耳を塞ぎ、そして「金閣寺」への憧れの言葉をまるで呪詛のように吹き込み洗脳する
幼き溝口にとっては「性=汚らわしく、そして醜いもの。美の化身・象徴としての鳳凰・金閣の対極にあるモノ」というイメージが植え付けられてしまったのではないか?と。
しかも時は戦争と敗戦。溝口が教えられてきたであろう「戦争前の価値観」と「戦後の価値観」の埋めがたきギャップ。
人一倍繊細で完璧主義者の彼にとっては、自分自身の立ち位置の確保は本当に難しかったであろうと思えます。
戦前は「性的なモノは秘すべし」で有ったはずなのに、街中には「米兵と一緒に派手な格好をして歩くパンパン」達。
最初は彼女のお腹の中の子供を人為的に流産させるために自分の手を汚さずに溝口を脅して手伝わせる米兵。
最初は戸惑いながらも段々と過激に蹴りつける溝口。きっと幼き頃見た母と伯父の姿に蹴っているパンパンの女性を重ねたのじゃないか?そしてそれによって女性に触れる事すら出来ないための代償行為として女性を蹴る事で快感を覚えていたのでは?と思えました。
しかしその事も金閣寺の住職は不問に付すことで溝口の「絶対なるモノ」への不信は募る。
負のスパイラルです。
良かれと思ってした住職の行為。あるいは住職も、溝口の狂気の芽の内包を感じ取っての「事なかれ主義」の「臭いものには蓋」と言う考えだったのかもしれませんが。
三島由紀夫氏は「美」を追い求めていた作家だったような気がします。美文調の文章であったり内容であったり。
川端康成氏は一見すると判りがたい美への執着が有ったようです。しかし小説の中では私のようなウッカリには気がつかない感じでしたが。
話を戻しますと、金閣寺を燃やす事で溝口は自分自身の中の「理想化され、現実にはあり得ない絶対的な善と美の化身」から脱却出来たのだろうか?
私には溝口が燃やしたのは「自分の中の大きな核」をなしていたモノであるように見えました。母に対しても初めて「元気でな」と言う言葉を掛ける溝口。
それまでは「母親の庇護の元」「母親の言いなり」の青年の初めての「自我」の露出。
しかしそれが良くも悪くも溝口の人生を形作ってきた核のようなモノを自らの手で燃やしてしまったとしたら、ゼロからの構築は大変じゃないだろうか?
溝口・柏木・鶴川・住職・父親・母親・・・登場人物の中の心情がどれをとっても「自分の中に有るかも」と言う居心地の悪さ・・
私は舞台を身じろぎも無く見て、ドッと疲れ果てました。
その後、六本木ヒルズに向かったのは、剛君のチラシが欲しいと言うだけの事じゃなくて、「剛君にミーハーしている」と言うバカバカしいほどの明るさ?を求めていたのかもしれません。
六本木から日本橋に回り、用事を済ませるも、なぜか「箔座」に行けなかった。
あの日は「金箔」と言うきらびやかなモノを鑑賞する気分になれなかったから。
舞台の有り方は様々だと思えます。
エンターテインメント性が高い舞台で「日常の憂さを忘れさせてくれる華麗なショー舞台」も有れば、「日常の憂さを忘れさせる」どころかこのように観客に何かを思い起こさせる舞台も有る。
勿論、どちらが上とか下とかの評価はあり得ないとは思う。しかし、舞台に立つ人ならば、一度はこのような舞台に立ってみるのも良いのじゃないか?と思ったのです。
三島原作で宮本亜門演出。しかもNYで公演され絶賛された舞台。森田剛君は素晴らしい機会に恵まれたと思えます。
生意気を言うようですが、舞台って「演出家」で全然違うと思ってます。同じ俳優さんでも演出家が違うと「あれ?」と思うほど、芝居の内容が変わりますと思えます。
私の好きな方もある方の演出の時には「え?こんなに巧かった?この人」と思うような舞台でしたが、別の方の演出では???が一杯でしたから。
それでも彼は色々な舞台に立てるのだからラッキーだと思えます。
最後に私はブログタイトルでもお判りのように「堂本剛さん」の大ファンです。
剛君は「花影の花」で舞台に立っていますが、それ以後は舞台とは縁が有りません。私がそれに対して不満を持っても、彼自身と周りが決める事。
私が今出来る事は、彼の今のお仕事を見守り応援する事だけです。
きっといつの日にか、堂本剛さんも一杯色々な経験を積まれて、音楽活動以外の表現者としての姿も見せてくださると信じています。
感想とも言えない取りとめのない話にお付き合いくださりありがとうございます。